私より年長の戦後世代には、カラー映画を連想する人が少なくないはずだ。米国では1922年にカラー映画が生まれ、30年代には一気に普及、39年の『風と共に去りぬ』は全編カラーの大作だった。日本では、戦後しばらくしてようやくモノクロ(白黒)からカラーへの転換が始まった。日本初の総天然色映画は51年の『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督)である。カラーを強調するために「天然色」が謳われたのだ。
余談だが、かつて写真産業にいた身から言えば、カラー映画と聞くと逆にモノクロ映画を徹底的に追求した黒沢明監督を思い起こす。彼は、天然色を謳うものの、そのカラーなるものが当初は必ずしも“自然”色ではないことを嫌い、カラー作品を撮ることに慎重だったという。
63年の『天国と地獄』でカラーのシーンを一部挿入したことがあるものの、65年の『赤ひげ』まで徹底してモノクロ映画の極みを追求した。70年の『どですかでん』以降、ようやくカラーに転じたが、かえって意識的にカラーを使おうとする独特の色使いは、評価が分かれる。
黒沢明はモノクロ映画で、「光と影の対比」を意識した撮影法や、「質感」を重んじた小道具や衣装に様々な工夫を凝らした。私が高校生のころに脚本家・橋本忍に直接聞いた話がある。黒い衣装はそのまま撮るといわゆる「なす紺」の薄っぺらな黒に見えてしまうので、あえて一回赤く染めてから、その上に黒色を染め直したそうだ。そうすると、しっかりした厚みのある黒になる、ということだった。
閑話休題。
昭和後半の世代は、“天然”と聞くと、大瀧詠一の大ヒット曲『君は天然色』(81年)を思い浮かべるのではないか。作詞家・松本隆が早世した妹を偲んだ歌詞は、いつしか都会的なラブソングとして理解されるようになって今日に至る。
平成世代にとって「天然」とは、本人はいたって真面目だが、少しボケたことやズレた行動をとってしまう人を指す言葉だろう。純朴・素朴な愛すべき純情な人物。関西弁の「おぼこい」に近いかもしれない。
つまり、「君は天然色だね」と言われるのと、「君は“天然”だ」と言われるのは、大きく違うのだ!
「天然もの」と「養殖もの」
さて、“天然”ではなく、“自然”を名に冠する典型は、「とろろイモ」である「自然薯」(じねんじょ)だろう。
山野に育つ日本古来の在来種なので、「“自然”の中で“自然”に生育する」という意味で名付けられたという。「山芋」(ヤマイモ)とは本来自然薯を指していたらしい。栽培ものではなかったが、近年は栽培され、山で自生する野生のイモと区別されていると聞く。
他方、似ている「長芋」は、自然薯とは分類学的に異なり、中国原産の輸入種で畑で栽培されるが、「山芋」と称して販売されるので混乱しやすいようだ。
現在 “天然”という言葉がもっとも使われているのは、「天然もの」と「養殖もの」との対比においてではないか。
人手が加わらない“環境”(山野、河川・海)で生育し、その後人間に捕獲された動植物が「天然もの」と呼ばれる。対して、人為的に養殖や栽培されるのが「養殖もの」だ。
余談だが、タイ焼きにも天然ものと養殖ものがあるという話をご存じだろうか。「天然もの」とは、一丁焼きという焼き型で一匹ずつ焼かれるもの、他方「養殖もの」は、一度に複数匹が焼かれたものを言うそうだ(日本あんこ協会)。
“自然”なのに“天然”もの とは、これいかに?
“自然”なのに“天然”と呼ばれるものもある。その典型は「天然記念物」だろう。文化財保護法によって指定される、学術的に価値が高く、保護すべき動植物や地質・鉱物のことだ。特に価値が高いものは「特別天然記念物」に指定される。現在は、75の特別天然記念物と967の天然記念物が指定されている(文化庁)。
動物では、生息地や繁殖地を含めて、希少種や日本固有の生物が指定される。例えば、オオサンショウウオ、ニホンカモシカ、トキだ。
植物では、巨樹、名木、群落、自生地等である。例えば、屋久島の屋久杉、阿寒湖のマリモなど。
地質・鉱物では、重要な地形、洞窟、化石などで、例えば、北海道の昭和新山が指定されている。
天然保護区域では、貴重な“自然”環境そのもので、上高地や尾瀬、愛知・蒲郡の竹島などが有名だ。
これらは、〝自然”なのに“天然”とはこれいかに、ではあるが、いずれも「文化財」とされている。
では、ネイチャーポジティブを考える本論では、“自然”と“天然”をどう関係づければ良いのだろうか。
本論では、人為的な介入をしていない野性の、つまり“自然”本来の構成物である“天然”により形成される環境を「“自然”環境」と呼ぶこととしよう(第一次“自然”環境)。生き物がつくる構築物であるものの、ビーバーのダムやシロアリの塚もその一つと捉えられる。
他方、その“自然”環境と対照的に、人類が作為的に構築した環境は「“人工”環境」と呼ぶことにしよう。つまり、都市のように人間が景観を根本的に変えてしまった場所がその典型である。
農地や里山など、人手によって生まれた「“自然”っぽい環境」(第二次“自然”環境)は、「準“人工”環境」あるいは「準“自然”環境」と呼ぶことにしよう。
京都の庭は人為的自然の典型
ところで、「準“人工”環境」であるとともに「準“自然”環境」でもある典型は、日本(特に京都)の庭ではなかろうか。
第1、庭の外部の景観を庭の一部としてみなす「借景」(例:修学院離宮)。
第2、作為と無作為を意図的に混在させ、視線の誘導を誘う庭(例:桂離宮)。
第3、徹底的に作為的な庭で、訪れる人によって“自然”と解釈されうる庭(例:龍安寺石庭)。
どれも、「見なし/見立て」を基本として作庭されている。
京都以外の庭も同様だ。例えば、周囲の土地の美観を人為的に設える滋賀県の彦根城庭園。人為的に設計・管理された絵画的庭園である島根県の足立美術館、等々数多ある。
つまり、「作為」「無作為」の組み合わせ自体を意図的・作為的に行っている庭園である。無作為的作為と作為的無作為の組み合わせ…、“天然”的な“自然”を巧みに人為的営為の中に取り込むことこそ、日本的“自然”観の要諦であるのかもしれない。ただし、この議論は、ビジネス潮流を語る本論を踏み外すので、ここまで!
(本項続く)































