「私とは何者なのか」という問いから、人は決して自由にはなれない。
人は、自らを人間だと了解するから人間らしく振る舞わんとし、自らを庶民だと了解するから貴族のように振る舞う必要はないと考える。
すなわち、アイデンティティとは、人がこの複雑怪奇なる世間の中で振る舞い続けるための認識的基盤だ。
それ故、アイデンティティを巡る問いは、哲学の黎明期より重大な問いであり続けてきた。
例えばプラトンにおいて、「私」の本質は身体ではなく「魂」であった。身体は変化し、老い、朽ちる。しかし魂は、身体を超えて持続する実体であり、その人をその人たらしめる中心である。この立場では、アイデンティティは社会的評価や他者からの呼称によって左右されるものではない。
ところが近代以降、こうした自己理解は大きく動揺する。
ヒュームは、自己を探究しても一つの不変なる実体は見いだされず、あるのは知覚、感覚、印象の束に過ぎないと論じた。私たちが「私」と呼ぶものは、怒り、不安、喜び、記憶、欲望などの経験の流れに与えられた名称に過ぎない、というわけである。
この理解を社会的方向へ展開するなら、人間の感覚の相当部分は、他者との関係の中で惹起される。人は誰かから「上司」として期待され、「親友」として遇され、「父」として頼られる。そうした呼称、期待、まなざし、承認、誤認の中で、人は誇りを感じ、重荷を感じ、安心し、時に深く傷つく。
つまり、「私」は、他者からの呼称、評価、承認、期待、時には侮蔑や誤解に触れながら、そのつど自らについての感覚を形成しているのである。
社会心理学におけるアイデンティティ概念もこの地点に関わる。アイデンティティとは、自分がいかなる集団に属し、いかなる役割を担い、他者からいかに見られ、その関係性をどう受け止めているのかという、心理的かつ社会的な構造なのである。
しかし、人はそうした無数の感覚を、ばらばらな断片として抱えたままでは生きられない。そこで人は、自己を「物語」として編み上げる。過去の経験を選択的に想起し、現在の役割を意味づけ、未来への展望を与える。こうした自己物語を通じて、断片的経験は一つの連続性を獲得する。
この意味において、アイデンティティとは、固定的な魂でも単なる感覚の寄せ集めでもない。それは、社会的関係の中で生起する諸感覚を、時間的連続性を備えた一つの物語として統合する働きである。人は物語ることで、自らを自らとして保持し、アイデンティティを獲得する。
しかし、この自己物語は、時に激しく動揺する。「自分は有能な人間である」という物語が、失敗によって揺らぐ。「自分はよき親である」という物語が、家族関係の崩壊によって維持できなくなる。こうしたとき、自らを支えてきた自己物語そのものが崩壊の危機を迎える。
これこそが、アイデンティティ・クライシスと呼ばれる事態だ。
このとき、アイデンティティが、人が世間の中で行為し続けるための根本的基盤である以上、その危機は人生全体の危機へと及ぶ。自分が何を大切にし、何を誇り、何を目指すべきか――。人はその危機の中で、そうした判断の方向性を見失うのだ。
ただし、この危機は、必ずしも単なる崩壊を意味しない。エリクソンがその発達理論で指摘したように、アイデンティティの危機は新たな自己形成へと向かう発達的転回点でもある。
古い物語が破れたとき、人は新しい経験を取り込み、他者との関係を結び直し、別様の仕方で自らを語り直す可能性を得る。
しかし――そのとき人は、いかにして新たな物語を築き上げるのか。その転回の契機は、どこから訪れるのか。社会心理学は、この点に十分な答えを我々に与えてはくれはしない。
ここで再び頭をもたげてくるのが、プラトンが語った「魂」だ。
他者からの評価、社会的役割、経験の束、自己物語のすべてが崩れた後にもなお、新たな物語を作り上げ、立ち上がろうとする根源的な力を指し示そうとするとき、我々は再び、「魂」と呼ぶべき何ものかを想定の内に入れざるを得なくなるのではないか。
色即是空、空即是色。
我々はこの移ろいゆく世間の中で、その都度、物語を作らねば生きてはいけない。しかしそんな物語など、単なる便宜的な構成物だ。いくらでも捨て去ればよい。人がそれを諦観したとき、我々の魂が突如として「空の世界」に舞い戻り、この「色の世界」に新たな物語を作り上げる力がもたらされるのではないか――。
無論それは単なる想念だ。証明し得るものでもない。しかし、そうした危機に真に陥ったときにおいてこそ、我々は、それが真理であるか否かを感得する縁を得ることができるのではないかと――私は思う。




























