「哲学」というと、どうしてもカントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、ウィトゲンシュタインだと、西洋哲学の話になりがちである。
かくいうこの「令和哲学指南」も、これまで主として西洋哲学について語ってきた。
しかし、そもそも「西洋哲学」という言葉がある以上、哲学のすべてが西洋にあるわけではない。東洋哲学も仏教哲学もある。哲学とは「考えること」そのものだとするならば、人が文明を築き、生き方や社会のあり方について思いを巡らせるところには、どこにでも哲学はある。
では、なぜ近代以降の日本では、とりわけ西洋哲学が大きな位置を占めてきたのか。
その大きな理由は、西洋哲学がもともと日本人の生活世界から内発的に生まれた思想ではなく、近代化の過程で外部から大量に流れ込んできた思想体系だったからではないだろうか。
いわば当初の日本人にとって、それは一種の「異物」として現れたのである。
人は、何もかもうまく運んでいる時には、自らの生き方の根本原理について深く考える必要を感じない。逆に、それまで当然だった秩序が揺らいだ時、初めて「なぜそうなのか」「どう生きるべきか」を考え始める。
前近代の日本では、共同体の慣習、家、職分、宗教、祭礼、地域社会などが重なり合い、人々の生活に一定の型を与えていた。多くの人々は、自らの倫理観や人生観を一から組み立てなくとも、その歴史的・伝統的な生活世界の中で生きることができた。
もちろん、思想がなかったわけではない。国家統治の側では仏教や儒教などの外来思想が取り入れられ、武士層も仏教、儒教、朱子学、陽明学などを学びながら、独自の倫理観を形成していった。ただ、そうした思想を体系的に学ぶ必要性は、社会全体に等しく求められていたわけではなかった。
ところが黒船来航以後、日本社会は急速に変化する。西洋由来の政治制度、法制度、産業、科学技術、教育、生活様式、価値観が一挙に流れ込み、それまでの日本的な生活秩序と複雑に重なり合うようになった。
こうして日本は、長い歴史の中で培われた「日本的なるもの」と、新たに導入された「西洋的なるもの」とが、必ずしも十分に調和しないまま混在する社会となった。
その時、日本人は初めて、自分たち自身を意識的に考えざるを得なくなったのではないか。それまで自明であった生活の作法や社会の秩序が、外部から持ち込まれた別の価値体系と並べられた瞬間、それらはもはや「当たり前」ではなくなる。比較する対象が現れて初めて、人は自分自身が何者であったのかを知る。西洋との遭遇は、日本人に西洋を発見させると同時に、あるいはそれ以上に、日本人に「日本」を発見させたのである。
西洋とは何か。日本とは何か。個人とは何か。自由とは何か。国家とは何か。幸福とは何か――。日本人が西洋哲学を熱心に学んだのは、自らの外部から入り込んできた西洋的な価値観を理解し、西洋と日本が融合せざるまま、ただ斑(まだら)に併置された時空の中で「どう生きるべきか」を考える必要があったからではないだろうか。
――それから150年以上が経った。
いまや西洋由来の制度や価値観は、日本人の生活の中に深く根を下ろしている。もはや単純に「外来の異物」と呼ぶことはできない。
ところが同時に、明治維新、産業化、都市化、敗戦、戦後改革、高度経済成長、家族や地域社会の変容を経る中で、かつて日本人が生活の中で自然に身につけていたものの方が、現代人にはむしろ遠いものとなりつつある。
仁義、忠孝、礼節、経世済民、築土構木――そうした古い言葉を、私たちはいまや「哲学」として改めて学び直さなければならない。
ここで必要なのは、西洋哲学を捨てて昔の日本へ戻ることではない。既に西洋的なるものも、日本的なるものも、私たち自身の内部にあるからだ。そうである以上、その双方を自覚的に学び直し、自らの中でいかに調和させるかを考えざるを得なくなる。
古いから捨てるのでもなく、古いからありがたがるのでもない。長い歴史の中で生き残ってきた思想が、なぜ生き残ってきたのかを考え、それを現代に耐えうる形へと読み替える。近代以前の日本人が生活の中で無意識に身につけていたものを、令和の日本人は、逆説的にも「哲学」として学び直さなければならない。
それこそが、令和の日本人に求められている「哲学」なのである。































