従来、産業・工業における自然資源活用は、鉱物資源(メタル)と化石資源(ケミカル)が主軸とされていた。だが今後は、これらに積極的に頼ることはできない。地政学的要因により困難になり、また採掘制約で憚られるからだ。
 そこで、ネイチャーポジティブ(生物多様性の回復)を、ビジネスにおける資源調達の観点から自然資源(バイオ)活用へ向かうことと捉えていかなければならない。
 他方、サーキュラーエコノミー(CE)は、本連載で繰り返し見てきたように、その本質は「資源生産性」であり、ビジネスの基本は「使い続け」である。
 そこで、両者が重なるところとして、ビジネスにおける活用資源として生物資源に期待が寄せられるのだ。なぜなら、再生速度が鉱物や化石資源に比して格段と速く、かつ増産可能であり、つまるところ循環的資源だからである。
 そして、生物資源は利用可能性の開発がまだまだ可能である。その意味で、全ての生物多様性を確保・増大することは人類にとって極めて重要なのである。

自然の価値は内在的か功利的か



 さて、前回からの続きで、自然の価値の根源に関するという議論をどう考えるか、検討してみよう。
 自然に関する価値説は、大きく2つある。
 1つは、生物多様性は生物が人類にとって役立つから必要だ、という議論だ。これを「手段的価値説」と呼ぶ。一種の功利主義的議論である。
 もう1つ、「目的的な内在的価値説」とでも呼べる議論も根強い。そもそも、すべての生物、生態系全体の存在自体に内在的に価値があるとする、一種の環境倫理的な議論・考えである。
 だが、これら2つの議論は、理念的には並行を続けるものだ。完全に「コンセンサス(1点における完全一致)」を得るのは難しい。では、両論は対立だけで並行し続けるのか…、だが「生物多様性を回復すべきこと」自体に関しては、実は2つの議論は折り合える点もある、と私は考えている。
 第1は、「手段的価値説」を主体にしつつも、「内在的価値説」を制約的に見なすという、一種の「レジリエンス的寸止め制約論」とでも呼べる議論である。
 われわれ人類は、自然の恩恵の下で活動できる。ボスは自然なのだ。人様がボスとして自然全体を征服し服従させているわけではない。自然に感謝しつつ、その恩恵を超えるような振る舞いをしてはならず、自然の利活用は、自然が自然に自律的回復をする範囲内に留めることが肝要だ。すなわち「寸止め」の範囲内で手段的価値として活用させてもらう、とするものである。つまり、自律的再生と自律的自浄を前提にして、人類が手段として資源活用するという議論といえる。
 第2は、一種の「アコモデーション論」である。Why(目的・理由)は異なるにせよ、What(活動)のレベルでは、生物の多様性を重んじるという点で一致する。さらに具体的な方策である多様なHow(手段)においては、さらにその多くが一致するように見受けられる。つまり、全体として見れば、「コンセンサス(一点一致)」は無理だとしても、一種の「アコモデーション(行為レベルの同居状態)」を形成することは可能である、と見るのである。何より、どちらの議論でも、生物多様性が多ければ多いほど良い、とするはずなのである。
 要するに、「生物多様性の回復」に関して、その理由は異なるものの、その活動と手段行為は共通・共同できるのではないか、という議論が可能であるとするのである。一種の「同床異夢」「呉越同舟」を肯定的に捉える議論である。
 このように、ネイチャーポジティブを、今後のサーキュラーエコノミー(循環経済)への移行転換に取り込むことは好ましいし、かつ可能である、と考えることができるはずなのである。

「自然」とは何か
西洋と日本での概念の相違




 そもそも「自然」とは何か――。不思議なことに、ネイチャーポジティブの議論で〈「自然」とは何を指すのか〉という解説に出合うことは、実は多くない。ここで「自然」をどう捉えるべきかを考えてみよう。どういう概念か、どんな世界観に裏付けられているか、何が含意・示唆されているのか…。日常的には、植物、動物、大気、天体など人手の加わっていないものの総称だろう。だが、よく見てみると、結構微妙だ。
 私的体験談をお許しいただきたい。私が1980年代に英国に留学し、その後大学スタッフとして英語の世界に浸かり始めた時のことだ。日本語と英語の意味の差異にかなり敏感になっていた。用語・概念・言い回しなど、多くの気づきや学びがあった。そのうちの1つが「nature」だった。
 英語の「nature」は、必ずしも日本語の「自然」とは一致しない。英国では、スコットランドやウエールズの一部を除き、またイングランドではほぼ全ての土地は「人為的介入」がなされたものだ。つまり英国のほとんどの土地は、人類に作為的に介入されており、それゆえ人類による作為的な介入がなされていない〝自然〟は、ほぼ存在していないのである。
 それは辞書的定義にもあらわれていた。例えば、『オクスフォード英語辞典』(IV.11.a.c1400?)には、次のように記載されている。
 The phenomena of the physical world collectively; esp. plants, animals, and other features and products of the earth itself, as distinguished from humans and human creations.(下線筆者)
 「物理的な世界の集合的な事象の総称;特に植物、動物や他の生物、それに地球自身の産物であり、人類や人工物とは区別される」(筆者訳)。
 なお、ここで地球自身の産物とは、気象や鉱物などを指す。つまり、人間や人工物でない存在が「自然」なのである。
 また、1980年代当時、画期的とされたコーパス型辞書(同時代の実例に基づき編集された辞書)でも同様だった。例えば、『Collins Cobuild Dictionary English Language』(1987)でも、用例と共に「人類と人工物以外のもの」と「自然」とは区別がなされていた。
 ただし最近、ようやく人類も自然の仲間とされるようになってきたようで、次のような表現も加わった。
 More widely: the whole natural world,including human beings.
 とは言うものの、西洋、特に英語圏ではヒトと人工物は「自然」とは区別されるのが伝統的な考え方であり、それは文化的に浸透しているようだ。
 では、人手が入っていない「自然」は何と呼ぶのだろうか。それは「wild」だったのだ!
 日本語では、「野生」「原生」かもしれない。例えば、富士山の麓の青木ヶ原や、人為的な影響をほとんど受けていない世界最大級のブナ原生林を抱える白神山地といったところだろうか。そこで、人類以前から続く「野生」を「天然的自然」と名付けることもできるかもしれない。     (本項続く)