決められる政治とは、もちろん「対財務省」では大きな武器になる。というよりも、この武器を獲得するべく、高市早苗総理大臣は解散総選挙に打って出たのだ。
とはいえ、決められる政治とは、まさに諸刃の剣。竹中平蔵氏に代表されるグローバリストが、政権の諮問会議に入り込み、「特定の誰かを利する政策」が、軽々と決められていく可能性も否定できない。ともあれ、結果は出た。日本国民は、自民党というよりは「高市総理」が決められる政治を選択したのである。
高市政権の政策は、責任ある積極財政。とはいえ、これはあくまでお題目だ。高市政権の経済政策は「官民連携の投資による経済成長」である。これまでの小さな政府路線、民間主導の経済成長路線から大きく転換することになる。
官民連携の投資の目的は何だろうか。無論、供給能力を引き上げることだ。表立っては言わないが、高市総理およびブレーンたちは、供給能力毀損型、サプライロス型インフレについて確実に理解している。
30年も続いた緊縮財政、および政府のデフレに対する愚策により、日本の供給能力は毀損し続けた。結果的に、供給能力が総需要を下回るインフレギャップ状態になり、物価(GDPデフレータ)はバブル期を超えるプラスが続いている。

輸入物価上昇の影響は、2022年で終わった。23年以降の物価上昇は、明らかにインフレギャップが原因である。つまりは、物価対策として供給能力を引き上げる投資が必要なのだ。
ところで「供給能力」とは、やや抽象性が高い言葉ではある。そもそも、供給能力とは何だろうか。
「財やサービスを供給する能力」では、話にならない。正解は、生産性。生産性とは、「生産者1人当たりの財やサービスの生産量」になる。ここまで具体化すると、抽象性は消え失せる。
もちろん、産業、業種、業務により、生産性の中身は変わってくる。とはいえ、それぞれのカテゴリーにおける「財やサービスの生産量(金額ではない)」を定義すれば、いろいろと見えてくる。供給能力とは、生産性そのものだ。
また、投資とは、勘違いしている人が少なくないわけだが、「資金を投じる」ではない。「資本を投じる」だ。そして、資本とはインフラストラクチャー、工場、機械、設備、運搬車両などになる。資本を投じ、生産性を高める(1人当たり生産量を増やす)ことこそが、供給能力向上であり、経済力強化なのである。
投資は「設備投資」「公共投資」「人材投資」「技術投資」の4つに区分される。というか、この4つ以外には(今のところ)ない。
経済の五要素(資本、労働、技術、需要、資源)のうち、資本(モノ)、労働(ヒト)、技術(ワザ)の3つを生産の三要素と呼ぶ。公共投資と設備投資はモノの強化、人材投資はヒトの強化、そして技術投資がワザの強化となる。
ちなみに、公共投資と設備投資の違いは、「政府が投資をするのか、民間が投資をするのか」の違いでしかない。やっていることは同じである。資本を投じ、資本集約により生産性を高めるのだ。
実のところ、日本は「弥生時代」から資本主義であった。すなわち、田圃、水路、貯水池、灌漑設備などの資本を投じることで、コメの生産性を高めようとしたのだ。
もちろん、弥生時代に「貨幣」は存在しなかった。とはいえ、貨幣など初めから関係がないのだ。投資とは資金を投じるではなく、資本を投じることなのである。
生産性高く財やサービスを生産するために、各種の「モノ」を投じる。つまりは、モノを生産することで、より大量の財やサービスを生産可能にしようとするのである。これが、資本主義だ。
そもそも、本格的な資本主義の始まりとなった18世紀のイギリスは、綿製品について、「本家本元のインドよりも安い価格で生産したい」というわけで、さまざまな発明が行われ、技術が開発され、設備が投じられ、劇的に生産性を高めることに成功した。結果、イギリスが世界の覇権国になった。
供給能力とは生産性であり、生産性を高めるには投資しかない。そして、投資とは「資本」を投じること。この当たり前の認識を、日本国民は今こそ理解しなければならない。



























