ヨーロッパ文明というのは1つの大きな長所があり、それは論理がしっかりしていて、知性を重んじているということである。それをもって近世からヨーロッパは目覚ましい成功を収め、ほぼ全世界の有色人種の国を植民地にすることに成功した。
 これに対して日本は、文明としても、歴史としても、ヨーロッパに対抗できる優れた点を持っていたので、世界のほとんどの有色人種が植民地の下で呻吟した時期に、日本だけははっきりとした独立を保ち、繁栄を享受することができた。
 だからこそ現在、ヨーロッパもアメリカも行き詰まった状態に陥ったこともあり、欧米諸国のかなりレベルの高い有識者は日本に注目し、「近未来の世界は日本の文明がリードするであろう」と論じるようになった。実に素晴らしい! 日本の産業界や一般の日本人が希望を持てる明るい話だ。
 でも本当にそうであろうか? そしてその準備が日本人にできているだろうか?
 この論理の根幹は、欧米が植民地時代から、自立して繁栄する時代へと、うまく転換できなかったこと、特にウクライナ戦争の終結に当たって、それが表面化してきたことが第一にある。
 そして第二には、欧米が衰退しつつある根源が「自分だけ、自分の国だけが良くなれば良い」という、欧米の文明の決定的な欠陥が顕在化してきたことだと考えられる。
 1990年ごろからの世界的な変化から35年経って、比較文明論、比較言語学等からヨーロッパ型の論理体系のもとで出した結論であるので、かなりの信頼性があると考えられる。


特異な日本語の再評価



 まず最初に日本の評価が上がったのは、比較言語学の分野からであった。
 もともと日本語は言語体系としてもかなり特殊なものであり、世界の言語をグループ化する研究では、なかなか日本語にぴったりと入る言語グループが見当たらなかった。もちろん日本語に類似の言語はあったが、それは文化の発達とはなかなか結びつかず、必ずしも1つのグループにまとめられるようなものではなかったからである。
 英語を始めとした世界の主要な言語や、また大きなグループとしてまとめられるいくつかの言語の中にも、日本語を入れることができなかった。
 そこで「日本語」は他の言語との関係性がなく、未発達な言語の1つとみなされていた。
 特に「漢字」は中国から輸入されていたにもかかわらず、中国にはない「訓読み」が存在した。さらにひらがな、カタカナ、加えて世界的には珍しい、動物の声や自然の中に見られる音などを擬音化して表現するものもかなりあり、極めて特殊な印象であったようだ。


言語は何のツールか



 しかしコンピューターなどの技術が進歩するとともに、比較言語学の世界、なかでもアメリカで別の見方が出てきた。
 ハーバード大学の研究者などの努力によって、日本語の複雑さを前向きに考える努力が行われ、その中で意外なことがわかった。
 例えば、5、6人が部屋にいて、ひとりの人が「暑いので、窓を開けよう」としたとき、英語圏の人は「I will open windows 」(主語、述語の順)と言い出し、「自分がこれからやること」を強調する。これに対して日本人は「今日は蒸し暑いね」などと、行為よりもその部屋にいる人が共通して感じていることで話を切り出す。 
 つまり英語が「自分がやること」をコミュニケーションの中心にするのに対して、日本語は「何をするか」は言わないで「共通認識」を取ろうとする。
 なるほど…と言語学者は思った。それまで言語というのは、「自分がやること」などを先に言って、それでコミニケーションを取るためのもの。それが当たり前だと思っていた。けれども日本語は、その場にいる人の合意を先にして、それからそこにいる人の行為に話が及ぶ。
 どちらが優れた言語だろうか。もしかすると、自分がやることを先に言う言語よりも、先にそこにいる人の合意を取るのが優れたコミュニケーションではないか…というふうに考えが進んでいった。


言語が及ぼす社会構造



 現在では、すべての比較言語学者がそう考えているわけではないけれども、どうやら今までの言語の考え方に大きな欠落があったのではないか――という意識が多くの人に芽生え、日本語が大きく再評価されてきている。
 現在の欧米の社会が行き詰まっているのは、自分本位の態度を取る人や、わがままな子供が多く、社会の競争が激しく、格差が広がるのは、言語の発達が不十分だからではないかと思われ出しているのだ。
 つまり、現在、世界がいろいろな点で行き詰まっているのは、自己中心の社会を形成する言語と社会構造が深く関係してると思われるようになった。
 ということは、仮にこういう考え方が進めば、日本文明が発達することによって、世界は新しい進歩をするのではと考えられたわけである。
 この考えは非常に論理的で、日本にとって将来に大きな希望が持てるものだ。